石田梅岩とその神道思想について

 石田梅岩(いしたばいがん)は江戸時代の思想家です。1685年生まれ、1744年没、主に八代将軍徳川吉宗の頃に活躍したことになります。
 梅岩は京都郊外、現在の亀岡市の中農の家に生まれ、京都の商家に奉公にに出ます。そして四十五歳の時に自分の考えを広めるべく講義を始めます。「正直」「倹約」「勤勉」といった商人の道徳、倫理を説いて、多数の商人の信者を得ます。死後、弟子達が組織化し、梅岩の思想を広める努力をした結果、その思想は全国に広がり、商人だけにとどまらず、武士や農民にも広がりました。梅岩の思想は「石門心学」と呼ばれ、現在でも信奉している人がたくさんいます。

 一見神道には関係なさそうですが、梅岩は一度目に奉公に出た商家は退転して、故郷に戻り何年か農業に従事しますが、再度京都の商家で働きます。その目的は「神道を説き広める」ということにあったようです。
 そこで梅岩の著作である「都鄙問答」、それから弟子がまとめた「石田先生語録」を読んでみました。まず気がつくのは、梅岩が説いたのは商人のことだけではないということです。ただ、商家で働いた経験から得た話は現実感があり、そこが商人層に受けた理由の一つでしょう。
 「都鄙問答」は問いに師である梅岩が答えるという形式になっています。答えには「論語」「大学」「中庸」など儒教の書物から大量の引用がされています。そこで、一見儒学者の話のように見えますが、よくよく読むと、儒教の教えを忠実に伝えるというよりは、自分の意見がまずあって、その裏付け、補強として四書五経から自由に引っ張ってきて話を展開している、という印象が強いものです。引用は儒教だけでなく、神道では日本書紀からいくつか引用しています。

 両書において、神道についての話はあまり多くありませんが、いくつか見ていきます。
 まず「武士の道を問うの段」では質問者の話の中に出てきます。その要約です。

 伊勢神宮に参拝して御師に大神宮の教えを教えてくださいと聞いたところ、「この神の教えはただ正直を善とします。親への孝、主君への忠、正直に仕事を熱心にして、心に掛かるようなことはせず、その上で罪があれば、その罪は神さまが引き受けてくださいます」と言われました。それは易しそうなので、もっと難しい教えはないですかと聞いたところ、「先ほど言ったことを行うのはとても難しいことです」と御師から言われました。

 なかなか面白い話です。正直は神道の教えとして重要であることは間違いありません。しかし、孝と忠は神道かと言われると考えるところがあります。どちらも儒教の徳目として重要なものですが、だからといって日本人にその思想がなかったというのも不自然な話です。どちらとも日本人が好きなものであると思います。

 次は「ある人、神詣でを問うの段」から。

 ある人が問うたのは、「親の命日に故郷に帰ったのですが、産土社にはお参りにしませんでした。墓参りが第一ですので、墓参りをしてけがれた後になるため神社へ参拝しませんでした。神社に先に行くのは親を粗末にするようなものだと考えたからですが、どうでしょうか?」
 それに対しての先生の答えは「親が気に入るようにしなさい」
 質問者が「親はもういませんから聞くことができません」と言ったところ、先生は、「親は子によってよいことを願うものだから、けがれのないうちに神社にお参りするべきです。親が生きているうちに帰ってきた時は、まず産土社にお参りしなさいと言われたでしょう。ならばそれが親の心に叶うことです」

 これも親への孝がテーマとなっています。日本でも長らく孝は重要視されてきましたが、儒教の影響がかなり無くなってきた現在の日本人から見ると、不思議な議論のように思えてきます。

 もう一つは「ある人、天地開闢の説をそしるの段」から

 要約すると、「日本書紀の初めに書かれている、天地開闢の神話、どろどろとしたものから天地が分かれて、その中に神が生まれた、という話は誰が見て話を伝えたのか、奇怪な話ではないですか」とある人が質問したところ、先生は「まず、そう言う人は多いですが、聖徳太子や(日本書紀編者の)舎人親王よりあなたは優れていると思ってるのですか」と聞いたので、ある人は「いえいえそんなことはありません。ですが、この話は奇怪です」と言いました。

 その後の先生の話は易経からの話が延々と続いたりしてあまり面白くありませんので省略します。このような質問、批判をする人は当然昔からいたわけですね。面白いのは梅岩自身も答えの中で、「以前も私はこの話を批判していたけど愚かだった」と述べているところです。

 「都鄙問答」と「石田先生語録」を読んだところでは、神道の熱心な信徒である、神道を説きたかったのだろう、と思うところは、正直なところあまりないのですが、神儒仏のどれが最もありがたいのか、という問いには太神宮は第一に拝すべし、と言っています。長らく神儒仏習合が日本人の思想だったわけですが、梅岩はどれも大切だと言いながらも神を第一に置く、神を儒仏より上に考えていたというところは注目すべき所でしょう。

 石田梅岩については、その思想に加えて、生きざまに注目すべきだと思います。裕福な家に生まれたわけでもなく、働きながらほぼ独学で勉強し(当時京都には貸本屋がたくさんあったらしいですが)、無料とはいえほぼ聞く人がいないところから講義を始め、聴講者を作っていった、という話は私たちにある種の感慨を催します。
 もちろんいくつかの幸運に恵まれました。商人層は当時金銭的な力は持ちつつあるも蔑まれていた感があり、また余裕が出てきた商人層の中で学問をしたいという欲求が上がっていました。梅岩はその時流に乗って始めたわけではありませんが、結果的にはそのようになりました。好学の商人達に指針と自信を持たせることになったのです。
「もし聞く人いなくば、たとえ辻立ちして成りとも、わが志を述べん」
と言ったそうですが、その心意気、強い意志は見習うところがあります。